あまジン★ガクモンの神様

おもしろ勉強マンガ

第86回 左遷はさせん! の巻

 

f:id:amazim76445483:20210820185545j:plain

f:id:amazim76445483:20210820185555j:plain

道真公に左遷命令が出たときの状況は記録が残ってないのでよくわかりませんが、過去の同じパターンから、おそらく不意打ちの発表だったと想像できます。

 

実際、左遷命令のわずか3週間ほど前に、「従二位(じゅにい)」という、貴族・超トップクラスの官位に昇進・・・からの左遷。

 

えげつないことするなあ。。。

 

 

左遷の理由は次の3つでした。

 

宇多天皇をだましてうまく取り入った。

 

②身分が低いのに大臣になり権力を濫用した。

 

醍醐天皇をやめさせてその弟を擁立しようとした(=謀反)

 

①は「だました」根拠がなく、②は「身分が低い」が論外。

問題となるのは③です。

 

③はれっきとした国家犯罪。道真公は謀反を企てたのかどうか。

 

謀反計画が本当であれば、左遷どころか…牢屋に入れられるレベルの話です。


しかし、①②で印象操作としか思えない主観的な理由を入れ、

 

さらに、謀反という国家犯罪を企てた人間への処罰が「左遷」止まりという時点で・・・何をかいわんや、という感じもします。

 

左遷の理由となる謀反計画には証拠も証人もないばかりか、道真公に弁解の機会も与えませんでした。

 

そして「だまされた」当事者であるはずの宇多前天皇に対してすら、理由を聞こうと宮廷に訪れたときにも、ガッチリとガードして中に入れませんでした(本来なら真っ先に報告すべき人であるにもかかわらず、です。)

 


・・・しかし、しかしです。

 

「火のないところに煙はたたず」ともいいます。

 

もちろん大昔の話なので真実は確かめようもありませんが「謀反の計画だけはあった」とする説もあります。

 

その根拠となる唯一のものは、太宰府にいる道真公を訪れた、ある役人の調書でした。


太宰府を様子見に訪れた都の役人に対し、道真公が謀反計画の一部をゲロった、と、こういうわけです。

 

・・・ずっと無実を訴えていた道真公が、ふらっと訪れた役人に「やりました」みたいなことを急に白状するなんて、にわかに信じがたい話ですが、

 

この調書をとった役人こそが・・・道真公の怨霊伝説、そして「天神」の呼称につながっていくための重要人物になります。

 

そのへんもマンガでは…ハチャメチャに描いてみたいなあと思っています。


 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

第85回 道真公追放計画 の巻

 

f:id:amazim76445483:20210817174336j:plain

f:id:amazim76445483:20210817174351j:plain

f:id:amazim76445483:20210817174402j:plain

f:id:amazim76445483:20210817174414j:plain

道真公の改革は成功の気配がムンムン漂っていました。

 

道真公は学者・政治家以外に、おじいちゃんの代からやっている私塾も経営していて、ここから100人をこえる卒業生が官僚として宮廷内で活躍していました。

 

道真公は宮廷内で徒党を組んだり派閥を作ったりすることは一切しなかった人なのですが、それでも道真塾の門下生が大量に官僚としているわけで、他の貴族や官僚からしてみると大きな脅威だったと想像します。

 

道真公は


「合い間に政治をやってもいいけど、せめて半分は学者やってたいな」


「でも私がやめると時平さんひとりになるからがんばる!」


…みたいな発言をしています。

 

これ、総理大臣クラスの人が


「あき時間に政治やってもいいけどホントは学者していたいよ~」


と言っているわけで、冷静に考えるとトンデモ発言です。

 

まあ、それほど道真公は政治家より学者でいることに執着していたんですね。

 

■不吉な手紙

 

バックの宇多上皇を失い丸腰になった道真公のもとに、待ってましたとばかりに一通の手紙が。

 

差出人は学者官僚の三善清行(みよしきよゆき)。

 

「特に親しくもないのにこんなこと言うのもなんですが」で始まるこの手紙の内容が…なんとも気持ち悪い。

「自分は占星術をやっている」

「それによると道真さんの運勢は超悪い」

「破滅するよ」

 

などなど・・・結局いいたいことは

 

「あなた身分が低いんだからすぐ大臣やめなさい」

 

道真公にすれば「いやいや、辞めたいけど辞めさせてもらえないだけ!」と言いたいところでしょう。


この手紙の数か月後に実質の流罪となる太宰府への左遷命令が来ます。

 


この三善氏、道真公への手紙のわずか10日後に、天皇にも書状を送っているのですが、内容はカンタンにいうと

 

占星術でみたら、今年は謀反(むほん)が起きるから、あらかじめ賊を倒しておきましょう!」

 

というもの。

 

この2つの書面の内容は「賊=道真公」を暗にほのめかしており、天皇側への事前の雰囲気づくりをしていることがわかります。

 

ううう、陰湿・・・


この手紙をいいように解釈する説もあります。

 

なんらかの事情で三善氏が道真公追放の計画を事前に知り「追放される前に辞職すれば助かるよ」と助け舟を出してくれていたのだ、とするものです。

 

しかし、右大臣たるものが一官僚のアドバイスを受けたからといって軽々と辞職願を出しても通らないことはさすがに理解していただろうし、

 

そもそも親しくもないのに左遷という機密事項をリークする危険を冒してまで道真公に助け舟を出すのはなんとも不自然です。

 

だいたい・・・10日後に送った天皇への手紙には「道真公=賊」をほのめかす言葉が。

 

道真左遷後の三善氏は、追い打ちをかけるように得意の占星術で「賊を追放したので仕切り直し」を理由に、改元(年号を変えること)まで推進しています。 

 

こっわ~。



実はこの三善清行、官僚試験を受けたときの出題&試験官だった道真公に不合格の判定をくらい、合格まで2年も足踏みしています。

 

そのほか宮廷内のトラブル(阿衡事件)の後、地方への左遷人事もくらっています(宇多天皇引退で復活します)。

 

そのほか、史実かどうかはわかりませんが、道真公が三善氏を「愚」と評したという逸話も残っていたりするほどまわりからは不仲だと考えられていたようです。

 

事実だけとってみても道真公に恨みをもっていた可能性は十分ある人物でした。

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

北野天満宮、2つめの影の大ボス

北野天満宮には「天神地祇」のほかもう1柱、目立たないところに「大ボス」がおられます。

 

本殿へ向かう参道にある目立たない祠ですが、「さりげなくこんなところにあるけど、これってよく考えるとものすごい神様ちゃうん?!」と、ちょっとビビります。

 

御祭神が菅原道真公となっているためあくまで摂社というポジションですが、どこかほかの神社で御祭神になっていてもおかしくない、神様のランクでいうと「ボス」クラスといえそうです。

 

天満宮の影の黒幕(?)その2」が、こちら。

f:id:amazim76445483:20210720145732j:plain

火雷神」 そう、まさに「雷の神様」です。

f:id:amazim76445483:20210720145805j:plain


火雷神(いわゆる雷神)も「天神地祇」と同様に、北野天満宮が造営される前からこの地で祀られていました。

 

菅公は没後、怨霊として雷神と同一視され人々から恐れられます。そこからのちに「天神様」として昇華しますが、「天神」という名前の由来は雷神との習合によるものみたいです。


火雷神の祠の真向いに、私がペンネームをパク…いや、いただいた能福さんの祠もあります。

  f:id:amazim76445483:20210720150428j:plain

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

北野天満宮、影の大ボス!?

北野天満宮といえば、ご祭神はいわずとしれた菅原道真公。

しかし実は・・・影の黒幕(?!)が。

 

境内の裏手に、天満宮の「大ボス」がおられます! 

この祠を参らずして何を参る!!!

 

北野天満宮の大ボス、摂社の筆頭「天神地祇(てんじんちぎ)」。

f:id:amazim76445483:20210720144715j:plain

地祇とは「国土の神」、天神地祇は「天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)」つまり「すべての神々」ということに。

f:id:amazim76445483:20210720144836j:plain

北野天満宮ができる前、いや、菅公がお生まれになる前からこの地で祀られていた神様。こちらこそが「リアル天神様」(?)なのです! great !!

f:id:amazim76445483:20210720144945j:plain

しかも、な、なんとこの朱色のきれいな社殿、豊臣秀頼公の造営なんですね!!!(秀頼ファン)。

f:id:amazim76445483:20210720145011j:plain

全然関係ないのですが、「戦国大名で誰が一番好き?」というお決まりの質問があると私はいつも迷わず「豊臣秀頼!」と答えます。

 

そうです、「秀吉」ではなく息子のほう。

 

秀頼が戦国大名といえるのかはさておき、日本全国を敵にまわして城の周囲を取り囲まれ、天守閣を大砲で吹っ飛ばされても、堀埋められて100%勝ち目なくても なお戦う男前っぷりがせつないです。

 

ついていった武将たちもすごいけど、さすがに国内ほぼすべてを敵にしてワントップで戦ったのは日本史上 秀頼だけでしょう。

 

f:id:amazim76445483:20210720145054j:plain

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

第84回 左右の新米大臣 の巻

f:id:amazim76445483:20210807145316j:plain

f:id:amazim76445483:20210807145331j:plain

ここでいよいよ宿敵・藤原時平(ときひら)の登場です。

 

すこーしだけ、意地悪そうな顔にしてみました。しかし服装が・・・黄色。

黄色い悪役・・・?  悪そうにみえませんよね。

 

道真公に関する本ををいろいろ読んでみると、今のところ「時平=極悪」でほぼ統一されているようです。でも、ちょっと気になることもあります。


どうも事実を積み重ねていくと、時平は、一般にイメージされる極悪キャラではなく単に「藤原の神輿(みこし)にかつがれた悪役」だったのでは? そう思うようになりました。

 

マンガとはいえ時平をどうしても極悪人として描けず、キャラ設定は途中で少し軌道修正しました。

 

古今東西「矢面(やおもて)に立つ人」は、表向き見栄えがよくメンタルがタフ、言うことをよく聞いてよく働く便利な人が選ばれます。 その背後にいる人たちにとっては都合のいい「ダミー」です(ただし背後の人は最後まで決して姿を現すことはありません)。


これは完全な私個人の推測ですが、時平にも…背後に人がいた…。

 

名門藤原一族であることと、まだそのとき政治経験浅い20代の若者であったことを考えると、後ろで操る人がまったくひとりもいなかったと考えるのは不自然にも思えます。

 

そもそも経緯をたどっていくと道真公と時平の関係は、実はそんなに悪くなかったように思います(勝手な推測です)。 いろんな事実を重ねてみると、一般に言われているような大きな確執があったようには感じられないのです。

 

まあ、お話としては「善と悪」の二極化でわかりやすくするほうがよかったのでしょう。

 

このあと、ふたりのビミョーな関係も、大ざっぱなマンガでいつものようにふざけながら描いてみたいなあと思います。

  

宇多天皇はなぜ早く天皇をやめた?!

 

改革バリバリ派の先頭に立つべき宇多天皇がなぜこんなに早く天皇をやめたかったのか?はいろんな説がありますが調べれば調べるほど複雑そうなので詳細は書きません。

 

ただ、間違いない理由のひとつは「仏教大好き!」で早く出家したかったことがあるようです。


実際に時平&道真が最高峰ツートップ・左右大臣になった時点で「これで改革成功、もう安心!」と思ったのかどうかはわかりませんが、上皇すら降り、頭を丸めて出家してしまいます(それがあの有名な京都の仁和寺)。


唯一の強力な後ろ盾・宇多上皇が出家し政界を引退したことで道真公は完全無防備・丸腰となってしまいます。待ってましたとばかりに道真公包囲網は牙をむいて一斉に攻撃をしかけてきます。

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

第83回 じゃ、左大臣は? の巻

 

f:id:amazim76445483:20210805203801j:plain

 

f:id:amazim76445483:20210805203818j:plain

■右大臣の就任命令、3回も断る!

 

実際の道真公は右大臣の就任命令を、なんと3度も断っています。

 

この時代の慣習として昇進命令は2度まで辞退し3度目で受けていました(奥ゆかしい~京都っぽい~)。 しかし道真公は掟破りの「3度辞退」しています。

 

おそらく3度目は当たり前に受けるものだと思っていたお使いの人もびっくり仰天したことでしょう。 実は右大臣、ガチでいやだったという…。

 

しかし、この就任辞退は結局、天皇によって認められませんでした。かわいそ~

 

 

■なぜ右大臣になるのがそんなにイヤだったのか? 

 

なぜ道真公は右大臣になることを頑なに拒もうとしたのか?

 

道真公は自らの「出自」を理由にしています。

 

つまり

「身分が低いから大臣ムリ」
「自分は宇多天皇にたまたま抜擢されているだけ。右大臣は行き過ぎ」
と言っています。

 

道真公は中下級貴族の家柄。当時は大臣に中下級貴族が就任するのは異例中の異例で、すべては改革を進めたい宇多天皇の抜擢によるものでした。


身分制度の厳しかった当時、主流の藤原一族を押しのけての異例のトップ就任。周囲の嫉妬による嫌がらせもすさまじかったようです。特に野心家でもない学者の道真公にとっては肩身の狭い思いだったようで、そういう発言が多数みられます。

 

これ以上、官位が上がるのがつらかったのでしょう。

 

道真公は右大臣以外にも多くの役職を兼任・歴任していますが、そのとき兼任していた「右大将」も同様に3度「辞めさせてください~!」と訴えています・・・がしかし、すべて却下されています。

 

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

第82回 道真公の大改革! の巻

f:id:amazim76445483:20210804144840j:plain

f:id:amazim76445483:20210804144902j:plain

f:id:amazim76445483:20210805150944j:plain

f:id:amazim76445483:20210805150959j:plain

 

■税が払えない人はいったいどうなるの?

 

他府県に逃げる・山にこもる・貴族の私有地で雇われる・浮浪者になる・強盗になる…のいずれかがほとんどでした。こうして税を払う人がどんどん減り、税収が落ち、国のおサイフが…大がピンチに!

 

そこで道真公がとった策は?

 

なんと「厳しく取り締まる」の逆!

 

人々から相談を受けて現地の実態を調べる役人「問民苦使(もんみんくし)」を設置、現場の実態に合わせた税の取り方をします。

 

カンペキな現場主義。

 

中央の役人ならおそらく想像もつかないようなやり方。こういうところが地味に、すごい。

 

■当時の日本は男子が10人に1人しかいなかった?!

 

当時は唐のマネで、男(=働き手)に課税していました。

 

人々は税を逃れるため子どもが生まれたら役所に「全員女の子~!」で届け。 だから当時の戸籍を見ると「女」の文字がずら~~~っ! 男は10人に1人(戸籍上)。

 

ますます税がとれない!

 

そこで道真公は土地に対して課税しようとします。


でも実はこれ...戸籍ゴマカシ対策がメインではありませんでした。

 

地方の金持ちは畑を新たに開墾したら国有地なので課税されてしまいます。そこで免税されている特権階級の貴族に形だけ寄進し、名義料を払って実質自分の土地にして儲けていたのですね。ズル!

 

既得権益にメスをいれた道真公の改革


こうしてどんどん課税できる土地が減り、特権階級と地方の金持ちだけが大きく儲けました。これぞ官民癒着(現代みたい!)

 

道真公は全国を徹底的に調査、膨らんだ貴族の私有地を解体、庶民に分配し確実に税が入るようにしました。

 

道真公は触れてはならない特権階級の「既得権益」にメスを入れたのです!

  

私が「道真公すごい」と心底思うのは、現場の目線で仕事のオペレーションを組み立てることに徹底していた点です。そしてありえないくらい考え方が柔軟。

 

歴史上の人なら「天下統一」とか「偉大な発見」みたいなわかりやすい実績があると尊敬されやすいのですが、道真公の場合はそこがものすごく地味。 だから話を面白くするために「藤原時平との確執」や「怨霊伝説」の部分を面白おかしく脚色してクローズアップされてきたのかもしれません。

 

■現場目線のオペレーション第一に考えた道真公

 

道真公はエリート官僚で学者であるにもかかわらず最下層の現場オペレーションにまで見通して徹底的にこだわっています。 

 

「学問の神」である道真公は単なる伝説ではなく、本当の本当に頭のいい人だったんだなあと思います。


「地味だけどすごい」例として、国司(県知事みたいなもん)の決算報告を廃止したこと。

 

当時の書類を見ると、改革以降の決算報告が空欄になっています。

 

国の決算報告を廃止するなんて常識はずれもいいところですが、現場だけにしかわからないハッキリした根拠がありました。


ひとつは、煩雑な決算チェック。

 

この仕事に中央の役人が忙殺され、中央の仕事が滞ります。チェックされる側の国司の仕事も滞る。 

 

現代でいうと…支店に監査、お店に税務調査が入った状態、と考えれば近いのかな?

まさにあれです。調べる側もたいへんだけど、取り調べを受ける側は終わるまで仕事にならんわけです。

 

もちろん調べる側も対応する側も、その分人件費もかかります。

 

それまでは決算報告させて余剰の利益が出たらそこにも課税していました。

 

でも報告をなくしたので、国司は余剰利益を不測の事態(天災や不作の年など)のために備蓄することができるようになったのです。 もちろんそれで私腹をこやす国司もいたでしょうがトータルで見ると小さいことだと判断したのですね。

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

第81回 白紙に戻そう、遣唐使 の巻

f:id:amazim76445483:20210802144939j:plain

f:id:amazim76445483:20210802144952j:plain

f:id:amazim76445483:20210802145033j:plain

f:id:amazim76445483:20210802145124j:plain

 ■遣唐使の廃止は改革の一歩!

 

道真公は、遣隋使から数えて300年ほど続いた遣唐使を廃止しましたが、ハッキリした根拠がありました。

 

ひとつは、すでに唐の国力が衰え切っていたこと。

 

道真公は遣唐使廃止の1年前、唐の留学僧からの手紙で唐国内の情報を得ていたので、実は1年ごしの計画だったようです。


しかし最大の理由は税の仕組み。

 

当時は唐のモノマネでいろいろ学んでいました。ところがマネしていた唐の税制のおかげで日本の財政が破綻しかけていたのです。

 

日本は日本に合ったやり方でやればうまくいく!

 

讃岐の現場体験をベースに、讃岐でうまくいったことを日本全体に広げればきっとうまく。 その後の迷いのない思い切った行政改革を見る限り、そんな実感と確信があったようです。

 

遣唐使廃止は大国依存にバイバイし、日本が日本として独り立ちする大きなきっかけとなります。 実際このあと道真公オリジナルの税制改革によって国は復活し繁栄につながっていきます。

 

そして「白紙(894年)に戻そう」のち900年代以降、日本独自の「国風文化」が花開くんですね~ 

 

道真公、すっご~

 

■実は道真公のおじいちゃんは遣唐使

 

実は道真公のおじいちゃん・清公(きよきみ)も若かりし頃、遣唐使として唐に渡っています(道真公が生まれる前の話)。

 

この時同船していたのが…な、なんとあの最澄空海という・・・スーパーデラックス超豪華メンバーです!


今でこそインターネットにつなげば最新・最先端の情報を得ることができます。

でも当時、最先端にアクセスする手段は遣唐使。つまり、中国への船がインターネット!だったわけです。

 

選ばれたのは選りすぐりのエリート。

すでにスーパー僧侶だった最澄に対し、空海はまだこの時 駆け出しでした


当時の遣唐使はめちゃくちゃ危険。

 

船がどれくらいのデカさだったのかは謎ですが、一隻に100人以上乗っていたらしいですからたぶんギュウギュウ。

 

一行は4隻でしたが、な、なんと2隻が遭難、確率50%。もし清公・最澄空海の船が遭難していたら・・・歴史は大きく変わっていました。

 

あぶな~


清公じいちゃんはイケイケ。

 

唐から帰国するや、日本の宮廷の儀式・男女の服装・宮殿など、いろんなものを最新トレンド(=唐風)に変えてしまいました。

 

しかし考えてみると道真公は、偉大なおじいちゃんが進めた「日本の唐化」をやめて日本独自路線を始めた人。なんとも不思議なものですね。

 

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

第80回 天神様、泣いちゃった!?の巻

f:id:amazim76445483:20210727143036j:plain

f:id:amazim76445483:20210727143113j:plain

f:id:amazim76445483:20210730202932j:plain

f:id:amazim76445483:20210730202944j:plain

 

■道真公の讃岐赴任は左遷?

 

道真公の讃岐赴任は、「アンチ道真派が仕組んだ左遷」という説もありますが事実は不明です(基経さんはこの人事に関与していなかったようです)。実際、地方の国司で優秀な成績を上げた人はのちに官僚として出世街道を進むことが多く、人事としてはありえないものではありませんでした。 

 

ただ、文章大臣(もんじょうだいじん)という、学者としてトップの位置でやってきた人物がいきなり解任されて国司・・・ですから、道真公にしてみれば青天の霹靂たったに違いありません。

 

藤原時平』といえば、歴史的には道真公を太宰府に追放した宿敵といわれていますが、その父・基経さんと道真公はかなり仲良しだったようです。

 

トップ学者・官僚にのぼりつめた道真公に対し、アンチ道真派の誹謗中傷による嫌がらせはすさまじいものがあったようで、道真公はこのとき、基経さんに助けを求めて相談しています(その効果もあったのか、翌年は道真公への誹謗中傷がパッタリやんだそうです)。

 

基経さんもまた道真公を信頼し、公文書などの代筆をよく依頼していました。

 

天皇や基経さん参加の公式な餞別会とはまた別に、基経さんはプライベートでも自宅に道真公を呼んで餞別のホームパーティーを開いています。それくらい関係は良好だったんですね。

 

意外なことに、道真公の讃岐赴任の名簿を見てみると、なんと未来の宿敵・時平もそのメンバーにいました。 ただし、道真公といっしょに讃岐に行ったわけではなく、現地に赴任しない遠隔勤務でした。 これも基経さんの計らいだったのかもしれません。

 

もちろんこの頃、親子ほど歳の離れた道真公と藤原時平、ふたりの関係は悪いわけではなく、むしろ良好だった様子がうかがえます。 

 

 

■讃岐赴任の餞別会で

 

道真公は基経さんから歌を詠んでくれと言われた時、感極まって泣きじゃくり嗚咽で歌が詠めなかったというエピソードが残っています。プライドの高い道真公にとって、周囲から左遷扱いされていたことが一番悔しかったようです。帰宅後その夜は眠れなかったと。。。

 

生粋の都人・道真公にとって4年間の地方赴任はイヤでイヤで仕方なく「行くのヤだ~」という歌も残っています。現地でも4年間、一貫して「もーヤダ~帰りたーい」という歌が。。しかしそうはいっても仕事はキッチリ。讃岐国守としての評判は良好で人々からの支持は厚かったそうです。

 

■現地を歩くと


道真公が実際に現地を歩きます。

 

塩・魚・薬売り…と色々な職業の人、物乞い・逃亡者・老人・孤児、病人…など、極貧にあえぐ人々の暮らしぶりを詳細に視察していたことが当時の歌に。

さらには「上に立つものが憐みの気持ちを持たないでどうする!」という歌も。

 

もともと讃岐は退廃していました。
実は前任の国司がすごい人で、トップ自ら現場をまわり貧しい人たちを助ける施策を実行しかなり回復しつつありました。

 

道真公は引き継ぎだったわけですが「前の国司さんほどは無理…でも継承してガンバル!」みたいな歌が残っていてます。

 


人々が住むみすぼらしい家を漢詩

「蝸舎一間貧」

=「蝸(カタツムリ)の舎一間(いえいっけん)の貧しさ」

=カタツムリのような小さな家

と表現しています。

 

カツカツのせまい家をカタツムリにたとえるとはいかにも詩人ですが、私は即座にドラえもんの「でんでんハウス」を連想してしまいました。

 

f:id:amazim76445483:20210806223249p:plain

歴史的には道真公の讃岐赴任の4年間はそれほど重要視されていませんが、もしこの4年の現地体験がなかったら、あれほど的を得た政治改革は断行できなかったと思われます。 ただ、その改革が原因で太宰府左遷となり、そしてそこから神として崇められることになるのだから人生わからないものですね。

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

第79回 天神さまは政治家!の巻

f:id:amazim76445483:20210726140831j:plain

 

f:id:amazim76445483:20210727131911j:plain

f:id:amazim76445483:20210727131928j:plain

f:id:amazim76445483:20210727131950j:plain

道真公は、230年にわずか65人しか合格者が出なかったといわれる超難関試験の官僚試験に合格します(!) そして最終的には学者としての最高峰の文章博士(もんじょうはかせ)にまでのぼりつめます(文章博士は道真公の祖父・父も経験した地位で、菅原家の悲願でもありました)。

 

今でたとえると…文部科学省事務次官と東大の学長を兼任…みたいな感じかな? 

 

それが一転して讃岐(今の香川県)国司です。

 

文部科学省事務次官・兼 東京大学学長がいきなり香川県知事・・・という感じでしょうか。 極端に仕事内容が変わってしまいました。 

 

当時の貴族は都にいながら現地を誰かに任せて遠隔で知事をやることも多かったようですが、道真公には現地赴任の辞令がおりてしまいました。

 

座学中心だった都の学者生活から一転、現場で指揮をとることになった4年間の体験はその後の道真公の人生に、そして日本の政治に強烈な影響を与えます。

 

次回は讃岐赴任が決まったときの道真公の、ちょっと人間くさいエピソードです!

 

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

第78回 なぜ「天神」に!?の巻

f:id:amazim76445483:20210719223725j:plain

f:id:amazim76445483:20210719223814j:plain

f:id:amazim76445483:20210723140100j:plain

f:id:amazim76445483:20210723140114j:plain

道真公のお父さん・おじいさんはともに学者で私塾を経営し、たくさんの門下生をかかえていました。

 

ともに学者としてトップクラスで、文章大臣(もんじょうだいじん)と呼ばれる、当時の国立大学の学長に任じられていたほどでした。

 

そんな教育一家に生まれた道真公は、兄弟の中でも特に優秀だったようで、両親の期待を一身に背負っていたようです。

 

歴史上はほとんど姿を見せることはありませんが、道真公の母君もまた教育ママで、道真公に大きな期待を寄せていたことが、現在も残っている母君の歌でわかります。

 

天満宮では、道真公の父・祖父・母はそれぞれ神として祀られています。

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

北野天満宮の近くにあるオススメ神社② 安楽寺天満宮 

バスを使わずJR円町駅から北野天満宮まで徒歩で行くコース。

 

大通りではなく住宅地の通りに入っていくと、小さいながら雰囲気のある天満宮を偶然に発見しました。

 

安楽寺天満宮

f:id:amazim76445483:20210717211548j:plain

おお、これは知らなかった。

f:id:amazim76445483:20210717211619j:plainf:id:amazim76445483:20210717211653j:plain

安楽寺天満宮』って、寺か神社かどっちやねん!みたいな変な名前です。


が、もともと『安楽寺』は菅公が九州の太宰府で葬られたお寺の名前で、江戸時代ぐらいまでは神仏習合で『安楽寺天満宮』と呼ばれていたそうです。それがいまの太宰府天満宮ですね。

 

いまではお寺はお寺、神社は神社とだいたい区別がつけられていますが、明治時代の神仏分離政策が実施されるまでは仏様も神様もごちゃまぜになっていることが多かったようです。

 

今でもいくつかのお寺や神社でそのなごりを見ることができます。その代表としては滋賀県日吉大社が有名です。

 

日吉大社については非常に興味深い神社なので、また機会があればこのブログでもしっかりご紹介してみたいと思います。

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

第77回 うらめしや~のスーラスラ!?の巻

f:id:amazim76445483:20210719222222j:plain

f:id:amazim76445483:20210719222238j:plain

「天神」「学問の神」「怨霊」。

 

この3つは確かに結びつきませんね。

 

道真公が「怨霊」と化し、そしてそれが「天神」に昇華し、さらに「学問の神」として日本でおよそ1万2千社、日本で3番目に多い神社といわれるほど人々に支持を集めるようになったのは、なぜでしょうか。

 

このあとあまジンに経緯(いきさつ)を説明してもらいましょう。

 

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

第76回 オンリョーってなに!?の巻

f:id:amazim76445483:20210719220408j:plain

f:id:amazim76445483:20210719220423j:plain

菅原道真公は「日本三大怨霊」の一人と言われています(あと2人は平将門崇徳天皇)。

 

しかし興味深いのは、「恨みをもって亡くなった人を神様として祀る」という日本の慣習です。 

 

北野天満宮にいくと、道真公とは直接つながりがないけれども、冤罪(えんざい)で命を落とした人を合祀している祠もあります。

 

そういった有名人ならまだしも、京都の町なかを歩くと身分の低い無名の人物でも神として祀っている神社もみかけます。

 

金運の神社だー!と思って参拝したものの、よくよく由緒を調べると、元は怨恨を鎮めるために創建された神社であることも多々あります(年数がたちすぎて由緒がわからなくなっていることも)。

 

怒りを鎮めるために祀るところまではわかるのですが、「神様」としてしまうところが現代の感覚ではなんとも不思議ですね。

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ

第75回 トイレの神様?!の巻

f:id:amazim76445483:20210717231855j:plain

f:id:amazim76445483:20210717231924j:plain

なんで学問の神様なのに「天神」・・・?

 

菅原道真公を歴史で習うまでは本当によくわかりませんでした。

 

実は「天神」と呼ばれる神様には大きく分けて3タイプあります。

 

1つ目は古事記にも記述がある「天津神(あまつかみ)」。

 

2つ目は「火雷神」、いわゆる「雷神」。

 

3つ目は菅原道真公の「天神」です。

 

いまでは「天神」といえばほとんどが菅公のことを指しますが、なぜ学問の神といわれる菅原道真公が「天神」なのか。

 

あまジン・マンガの第二部は、天神様の強い、強い要望もあって(!)

 

天神様について面白く&できるだけわかりやすく、マンガにしてみたいと思います。

 

一般的に知られているような詩人・学者・怨霊としての菅原道真公のストーリーだけでなく、

 

あまり知られていないけど実はすごい道真公の業績や、

 

道真公が学問の神に至るまでの父・祖父・曽祖父の興味深い歴史についても

 

コラムを織り交ぜながらクローズアップしてみたいと思います。 

 

お楽しみに!

 

★↓見ていただけたら2つポチリ!と押していただけると励みになります。

  にほんブログ村 子育てブログへ